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鈴木雅彦作品集 その1
 ここに紹介するのは2006年に「津駅西戦争を語り継ぐ会」に招かれ、そこで新しい形で戦争体験を語り継ぐひとつの方法として、私が創作したものです。

 本文でも説明していますが、説教節・節談説教(ふしだんせっきょう)の節を借りての語り芸となっていますので、文章だけでは伝わりにくいかもしれません。また、袈裟を着た僧形での口演ですから、その点でも文章だけでは物足りなさを、私自身が感じます。

 私は僧侶ではありませんが、節談説教に若い頃関心を持ち、昭和40年代に小沢昭一さんが収集した放浪芸をまとめた「日本の放浪芸」のテープを全巻持っています。その中に何人かのお坊さんのお説教と、小沢氏が節談説教風に口演された「榎物語」(永井荷風の小説、僧侶の遺書形式の候文の小説)が納められています。

 無謀にも私はそれらを覚え、京都まで袈裟を買いに行き、以来、機会があれば(年に1回もありませんが)僧形で節談を語っています。2006年には鈴鹿市のお寺さんに頼まれ、地蔵盆のおりに本堂でたっぷりと1時間語らせてもらいました。

 こうした背景を知ってもらった上で、浪花節をイメージしながらお読みいただければ、何となく雰囲気が伝わるのではないかと思います。それでは拙作「津市の空襲」の世界にご案内いたしましょう。
節談説教「津市の空襲」
 この催しにお出でいただき候皆様方には、講談調にて「津市の姿」を語り候ものとお聞き及びのことと存じ申し候。この出で立ちにてあれば、馴染み候方には「さては説経節にても語り候ものか」、初めてのお方にては「何事の始まり候か」など、思し召され候や。

 確かに当初「津市の姿」を講談にて語り聞かせ申すべし、との趣にて御座そうらえども、一昨日の打ち合わせにて、「戦争・戦時体験を語り継ぐ会」にてそうらえば、津平和のための戦争展実行委員会の一員なる愚僧にて候ゆえ、「津市の空襲」につきて話をさせていただきたい由、ご承知いただき候次第にてこれ有りそうらえば、本日は「津市の空襲」のお話をさせていただくことに相なり候。

 とは申し候ものの、戦争体験も空襲の体験も之無きことゆえ、私なりのやり方での表現に及びそうらわん。

 さて只今のこの口調につき申し候。これは講談調にて候ものとは之無きものに御座候て、浄土真宗にて盛んにて御座候、説経を節に乗せ候て、語るが如く、歌うが如くとの説経節、または節談説教にて有之候。

 江戸時代後期には寄席と人気を二分致し候ほどの評判にて、講談や浪花節のご先祖様に御座候。明治に入りまして浪花節まがいで下品でいかんとのお達しこれ有りにより、ほぼ壊滅致し候て、今にては節の掛かり候僧侶、全国でもわずか数人になり申し候。これが愚僧なりの表現、追悼の意味も込め候て、この出で立ちと相成り候。説経節のほかに朗読も交え候て「津市の空襲」を語らせていただきましょう。

 ここに持って参りましたのは「津平和のための戦争展実行委員会」と「津の空襲を記録する会」がまとめました「津市戦災爆死者名簿」でございます。この名簿の表紙をめくりますと、こんなことが書かれています。


 私たちの津市にこんなことがありました。

 やさしい、いとしい、そして未来にいっぱい希望をもった人たちが思わぬ戦争で、全く想像も出来ない状況で命を奪われ、この世を去っていったのです。もし空襲がなかったら、もし戦争がなかったら、もし日本が平和な道を歩んでいたら、こんな名簿はなくてすんだのです。

 1970年から取り組んできました津市戦災爆死者の調べは、市民の方々からの多くのご指摘を頂いて増補・訂正を重ね、今回第3版を発行することになりました。津市での空襲による爆死者の名簿に記載される総数は1,396人になりました。

 この津市戦災爆死者名簿のどの部分を見ましても悲惨な状況が読み取れます。悲痛な叫び声が聞かれます。その人たちの無念の思いを汲み取り、その人たちに代わって、語りたいと思います。

 さらにご指摘を頂いて津市民の平和の礎としたいと思います。

 2005年7月
津の空襲を記録する会
津平和のための戦争展実行委員会
津市戦災爆死者名簿編集部


 空襲を体験なさった方々が高齢化され、今や戦争体験を持たない世代が語り継いでいかなければならない時期に来ています。どうしたら悲痛な叫び声、無念の思いを語ることが出来るのか、私は戦争展実行委員会で名簿を壁一面に張り出すことを提案しました。

 空襲で亡くなられた方々のお名前をただ羅列する、それを見ていただくことで何か伝えることが出来るのではないだろうか、そう思いました。同じ思いで、今から3分間、読める限りのお名前、年齢、いつの空襲で、どこで亡くなられたのか、これを読み上げたいと思います。

 ・・・3分間、読み続ける・・・

 この方々の無念の思いは今にてもこの街に埋まり候。あまりの死者の多きに、火葬致し埋葬、ということもできかね、お寺の境内、フェニックス通りの下、はたまた民家の地中に埋められ申し候。まして名前すら判明致さざる方々の無念、いかばかりや、A級戦犯を祀り、太平洋戦争を賛美致し候靖国神社に参拝し、違憲判決にも「なぜ違憲なのか分からない」と言い放ち候て、憲法9条改悪をたくらみ候、小泉首相に、この無念の声を聞かせ申したき由、思い候は愚僧のみにてはあらずやと存じ申し候。

 津市の7回にわたる空襲は、焼失面積が市街地の8割にも及ぶ全国でもまれに見る被害を受けました。どんなにすさまじい状況だったのか、これについては生き残った方々の手記に語ってもらいましょう。今年の戦争展の初日に津市が主催した市民の集いにおいて、10名ほどのメンバーで分けて朗読したものですので、少し分かりにくいかも知れませんが、お聞き下さい。

 ・・・読み上げる・・・

 私の父親は昭和4年生まれですから、終戦の時には16歳ですが、兵隊の経験があります。

 小学校高等科の教師の薦めで海軍に志願し、昭和十九年の夏、神奈川の藤沢海軍航空隊に入隊しました。新兵教育を受け、普通科練習生を経て、20年の4月、茨城県筑波郡矢田部村、のちにつくば博覧会の開かれた所です、ここで通信兵として無線を担当し、やがて兵長に昇進しました。二等兵、一等兵、上等兵、その上が兵長です。15歳の子どもが兵長になるというところに、当時の追い詰められた日本軍の様子がよくわかります。

 防空壕で無線業務をしていたそうですが、無線を傍受して発信地を突き止めたアメリカ軍の艦載機P51の機銃掃射を何度も何度も受け、身体の1bほど横を機銃弾が通り過ぎていったこともたびたびあったようです。もし機銃弾の位置が少しでもずれていたら、今私がこうしてお話しすることも出来なかったわけです。また当時の教師が強く勧めなければ兵隊に行くこともなかったわけですから、教育のあり方、教師の役割、改めて考えさせられます。

 母親は昭和5年生まれ、終戦は誕生日前ですから14歳です。小学校高等科の時には学徒動員で鈴鹿の海軍工廠へ行かされ、7ミリの銃弾の色つけをしていました。昭和20年4月に今の近鉄に入社して、津新町駅に配属されました。7月24日の空襲では駅周辺にも爆弾が落とされ、かぶっていた布団ごと爆風で吹き飛ばされ、線路に横たわっていたそうです。幸い怪我もありませんでしたが、その時少しでも爆弾の位置がずれていたら、やはり私がこうしてお話しすることも出来なかったわけです。

 最後に津市の空襲の数字をまとめておきます。

・3月12日深夜、阿漕浦に初めての爆弾、機銃掃射。
・3月19日夜明け前、長岡町に爆弾、男性1名死亡。
・4月7日、神戸地区に爆弾、死者26名。
・6月26日午前10時頃、橋北と橋南の軍需工場を狙って爆弾投下、死者約600名。
・7月16日、橋南地区で機銃掃射、電車内で男性が死亡するなど、これまで犠牲者はなかったとされていましたが、今年になってこの時の死者4名が判明。
・7月24日午前10時、B29約70機による市内中心部への無差別爆撃、死者は約1300名。
・7月28日深夜、B29約80機が今度は焼夷弾で無差別爆撃、中心部の8割が焼かれ、死者は約600名。

 7回にもわたり候空襲犠牲者は2500名余りにて候。現在までに名前の一部にても判明致し候は1396名のみにて御座候。いまだ1100名以上のお方は、お名前すら判明致しかねるものにて有之候。

 かくの如く数字を羅列致しそうらえば、その裏なるひとつひとつの家庭の様子、一人ひとりの悲劇の様子にては判じかね候ものなれど、まず事実を知って頂きたきものに候。南京大虐殺にても、ナチスのユダヤ人600万人殺害にても、かかる事件はこれなきものと言いたる者、出でくる時代にて御座そうらえば、まず事実を知りたることが肝心なり。

 加えて戦争体験を持つお方には体験を語りいただき、持たざるお方は親・祖父母に、それぞれなる体験を聞いていただき旨、強く申し述べたく存じ候ものなり。戦争を語り継がんとするは、これが第一歩と存じ候次第にて有之候。

 再び日本を戦争する国にせぬよう、力を合わせたき旨、改めて訴え申し上げ候て、愚僧のお話を終わらせていただき申し候。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 ここに書いた数字は合併前の旧津市のものです。大規模ではありませんが、家屋焼失の被害の出た地域は他にもあります。

 特筆すべきは美杉の例です。山村ですから空襲の対象になる地域とは思えません。7月24日、津市の空襲の帰途のことでしょう、恐らく機体を軽くして燃料を節約するためでしょう、一発の爆弾が美杉の山中に落とされました。

 山に薬草採りに来ていた大人1名、子ども6名が命を失っています。そこには今、小学生の呼びかけで作られた「谷中(たんなか)平和の碑」が設置されています。空襲で人命が失われたのは、新「津市」の中では旧津市と美杉だけでした。
 もしこれをお読みになって、一体「節談説教」とはどんなものだろうと、気になってしまった方はここをクリック、若しくはこちらをクリックして下さい。前者は新しく節談説教を始められた方のビデオ、後者は現代の第一人者だった故祖父江省念師が聞けるところが素晴らしいサイトです。とりわけ後者は学問的考察が加えられていて面白いです。ほかにも「節談説教」「節談説経」で検索すると参考になるサイトが出てきます。
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